大化の改新の黒幕
大化の改新は 近年「乙巳(いっし)の変」と呼ばれるようになり 改新の詔は 実は発せられたかどうか疑問であり 改革自体があったにせよ 大宝律令までに進められた改革を 日本書紀が纏めて記述したものと云われています
1936年生まれです 昔 万葉集を朝鮮語として読んだり とても難しい歴史解釈を続けて居られます 本編も とても難解で 後半は読み飛ばしました 先代の推古天皇は、在位36年3月7日(628年4月15日)に崩御した時、継嗣を定めていなかった。 蘇我蝦夷は群臣に諮ってその意見が田村皇子と山背大兄王に分かれていることを知り、田村皇子を立てて天皇にした。これが舒明天皇である。これには蝦夷が権勢を振るうための傀儡にしようとしたという説と他の有力豪族との摩擦を避けるために蘇我氏の血を引く山背大兄皇子を回避したという説がある。また近年では、欽明天皇の嫡男である敏達天皇の直系(田村皇子)と、庶子である用明天皇の直系(山背大兄王)による皇位継承争いであり豪族達も両派に割れたために、蝦夷はその状況に対応した現実的な判断をしただけであるとする見方もある。 大化改新は明治21年杉浦重剛らによる「日本通鑑」に初見される 日本書紀には 大化改新という言葉はない 頼山陽は 大化の改新を歴史家としてではなく 思想家として認識し 明治政府は 其の政権の正統性を保つために 明治維新を 建武中興 大化改新と合わせて 日本の三大王政復古として歴史的意義を持つものとして定着化させた 改新の詔は 大化年間に発布され 天智・天武時代に順次整備され発展し 8世紀文武天応時代に律令制として完成されたというのが今日の大勢である 改新の詔に郡の表記があるが 当時の表記は「評」であり 郡が使われるのは天武天皇の治世である大宝元年に制定され大宝二年に発布された大宝律令以降であることが藤原京の発掘で発見された木簡の研究により明らかにされている このことから大化の改新の詔は 大宝二年以降に書かれたものと推定される 大化改新は 社会改革や政治改革ではなく 蘇我総本宗家(蝦夷 入鹿親子)と 孝徳 中大兄 大海人達の権力闘争であり 644年に山背王を滅ぼした孝徳(百済義慈王)の反唐運動だった 故に唐は百済・倭国を攻めることになる 孝徳天皇(軽皇子) 敏達天皇の孫で押坂彦人大兄皇子の王子、茅渟王の長男。母は欽明天皇の孫で桜井 皇子の王女、吉備姫王。皇極天皇(斉明天皇)の同母弟。天智天皇(中大兄皇子) ・間人皇女・天武天皇(大海人皇子)の叔父。姪・間人皇女を皇后にした 阿倍倉梯麻呂(阿倍内麻呂)の娘の小足媛を妃として、有間皇子を儲けた。他に子女 は確認されていない。蘇我倉山田石川麻呂の娘の乳娘(ちのいらつめ)を妃とした。 『日本書紀』の評によれば、天皇は仏法を尊び、神道を軽んじた。柔仁で儒者を好み、貴賎を問わずしきりに恩勅を下した。また、蘇我入鹿を避けて摂津国三島に 引きこもっていた中臣鎌子(後の藤原鎌足)が即位前の軽皇子時代に接近していたことが知られる(『日本書紀』皇極天皇3年正月乙亥朔条) 皇極天皇4年6月12日(645年7月10日)に乙巳の変が起きると、翌々日に皇極 天皇は中大兄皇子に位を譲ろうとした。中大兄は辞退して軽皇子を推薦した。 軽皇子は三度辞退して、古人大兄皇子を推薦したが、古人大兄は辞退して出家した。 14日の内に皇極天皇から譲位を受け、軽皇子が即位した。大王の譲位は前代未聞で あった。前の大王である皇極天皇に皇祖母尊(すめみおやのみこと)という称号を 与え、中大兄を皇太子とした。阿倍内麻呂(阿倍倉梯麻呂)を左大臣に、蘇我倉山田 石川麻呂を右大臣にした。中臣鎌子(藤原鎌足)を内臣とした。僧旻と高向玄理を 国博士とした。 孝徳天皇元年6月19日(645年7月17日)、史上初めて元号を立てて大化元年6月19 日とし、大化6年2月15日(650年3月22日)には白雉に改元し、白雉元年2月15 日とした。『日本書紀』が伝えるところによれば、大化元年から翌年にかけて、孝徳天 皇は各分野で制度改革を行なった。 この改革を、後世の学者は大化の改新と呼ぶ。こ の改革につき書紀が引用する改新之詔4条のうち、第1条と第4条は、後代の官制を 下敷きにして改変されたものであることが分かっている。このことから、書紀が述べ るような大改革はこのとき存在しなかったのではないかという説が唱えられ、大化改 新論争という日本史学上の一大争点になっている。 孝徳天皇の在位中には、高句麗・百済・新羅からしばしば使者が訪れた。従来の百済 の他に、朝鮮半島で守勢にたった新羅も人質を送ってきた。日本は、形骸のみとなっ ていた任那の調を廃止した。多数の随員を伴う遣唐使を唐に派遣した。北の蝦夷に対 しては、渟足柵・磐舟柵を越国に築き、柵戸を置いて備えた。史料に見える城柵と柵 戸の初めである。 孝徳天皇は難波長柄豊碕宮(大阪市中央区)を造営し、そこを都と定めた。白雉4年 (653年)に、皇太子(=中大兄皇子)が大王に対して倭京に遷ることを求めた。大王 がこれを退けると、皇太子は皇祖母尊と大后(皇后・間人皇女)、大海人皇子を連れて 倭に赴いた。臣下の大半も皇太子に随って去ってしまい、気を落とした大王は、翌年 病気になって崩御した。宝算59。 近年では、軽皇子が中大兄皇子を教唆して乙巳の変を引き起こした黒幕であるという 説を唱える歴史学者もいる。しかし、軽皇子が即位して後重用したのは蘇我氏系豪族 が多く、今後の議論が待たれる。 第42代文武天皇も即位前は軽皇子を名乗っている 舒明 百済武王 古人は息子 敏達 高句麗系亡命王族 百済威徳王 中大兄 625年生まれ 大海人 622年生まれ 即ち 大海人の方が年上 難解な一冊でしたが 得るところも多い一冊でした
by toshi-ohyama
| 2019-10-10 06:29
| 幕張図書館
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